紫原の日記:もぐら会11月読書会課題本『愛するということ』

もぐら会では数ヶ月前から毎月の課題本を決めていて、月末に読書会を開催することにしている。
先月は完全なる私の気分で『ソウルミュージックラバーズオンリー』(山田詠美)を課題本にした。はじめのうちは20代のメンバーたちから「この本の世界があまりにも自分と遠すぎて全くイメージできなかった」といった感想が多く聞かれたものの、1時間、2時間と話を続けるうちに、いつしか「愛とは」「大人とは」という話題で大いに盛り上がり、21時半からスタートした読書会は、なんと深夜2時過ぎまで続いた。

マッチングアプリや婚活、結婚生活について何かと悩むことの多い私たちも、案外「愛」について、ど直球で考える機会は少ない。いつも身近にあるような気もするし、かといって簡単には得難いもののような気もする。馴染みがあるようでないような、ふんわりとした「愛」。ところが不思議なことにそんな「愛」を軸に自分たちを顧みていくと、それまで見えなかった新しい自分が見えてくるように感じられた。せっかくなら、これをさらに深く掘り下げてみたい思い、今月の課題本はさらなる直球、フロムの名著『愛するということ』にした。

15人ほどが参加した今回の読書会では、フロムが結局のところ「兄弟愛」に対する「異性愛」を何だと考えているのか、終盤に満を辞して登場する、フロムの言うところの「愛の習練」を経て愛し合うに至ったカップルは一体どんな雰囲気を纏うのか、といった話題が中心となった。愛することのできる人間になるためにフロムが必要とする「愛の習練」の内容は非常に具体的かつ(笑っちゃうほど)厳しい。規律を守り、集中力と忍耐力を持ち、さらに愛の技術の習得に常に最高の関心を持ち続けるものだけが、愛の技術を習得できるとしている。無駄なおしゃべりも、酒もタバコも、推理小説を読むことさえ許されない。ざっくり言うと(ざっくり言うことがそもそも許されない)、禁欲的で低刺激な生活をする中で資本主義社会に踊らされない自立し、自分を持った人間となり、博愛の精神が育ち、その上で特定の誰かを愛することができるようになるという。しかしやっぱりわからない。排他しない、博愛の精神を持ったまま特定の相手とカップルになることはどういうことなのか。誰かとパートナーシップを結ぶというのは誰か一人を特別待遇することではないのか。差別することではないのか。二人の世界から追い出すことではないのか。そんなとき、ある一人の参加者が興味深い話を聞かせてくれた。

なんでもその参加者は数年前、結婚し、子供を持ったばかりの友人夫妻から、不思議な新年の挨拶のメッセージを受け取ったのだそう。メールには3枚の写真が添付されていて、1枚目、2枚目にはそれぞれ赤ん坊の写真と、家族の写真。ところが3枚目には、赤ん坊を抱っこした友人カップルの間に見知らぬ女性が立っている写真だったという。”この人は誰だろう、たとえ親しい人だとしても、どうしてこの写真を新年のメールに?”と不思議に思った参加者は、友人夫妻にそのことを尋ねたそうだ。すると夫妻曰く、真ん中の女性は赤ん坊を取り上げてくれた助産師だそうで、なんでもその助産師にとって夫妻の赤ん坊が、初めて実際の分娩に立ち会い、取り上げた赤ん坊だったという。友人夫妻は、そんな貴重な機会に立ち合わせてもらった人だからと、参加者に説明したのだそうだ。

出産という、家族にとって極めて重要度の高いイベントにおいて、そこでたまたま巡り合った第三者の人生の局面を、家族のイベントと同じように尊重する。参加者の話してくれた友人夫妻の在り方に、厳しいフロムの示唆する愛のヒントを見つけたような気がした。

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